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YUKIプロデュース 山本周五郎シリーズVol.6

「青べか物語 part.U」

● 出 演 ●
上山克彦
遠藤かがり
佐藤三樹夫


〜蒸気河岸の先生と呼ばれた青年と浦粕の住民との交流譚〜

10月12日(水)
川崎市民プラザ
10月14日(金)
まつもと芸術館
小ホール
10月17日(月)
関内ホール
小ホール

●概 要●

ご存知のように山本周五郎の本名は、清水三十六。三十六と書いてサトム。
お察しのように明治36年(1903年)に誕生し、1967年に63歳の若さで亡くなりました。昨年は、ちょうど生誕100年にあたりました。
周五郎は23歳の時(1926年)、文芸春秋に投じた「須磨寺付近」が文壇へのデビューとなった。が、作品は自分の期待したほどに評価を得ず、その上、質屋・山本商店(きねや)の娘への恋いも断たれて失意のどん底におちこむ。
そんな中で、ふと・・・
『〈八犬伝〉に出てくる行徳に行きたくなった。その途中、満々と水をたたえた川の中の小さな街が、ベニスのように見え、魅せられるように降りてしまったのが、浦粕町(浦安)で、25歳から27歳までのあしかけ3年あまりを、ノートとスケッチを取って暮らした。』
この時に書いた『青べか日記』をひも解きますと、スウェーデンの作家ストリンドベリーの箴言集『青巻』を座右に置き、「苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である」と己を叱咤激励し、また、「I am a remarkable fellow!=私は秀でた人間だぞ!」と己に暗示をかけ、懸命に文学修行に励まれたことが刻まれています。
『青べか物語』は、こうした若き日の文学との苦闘、そして浦安の住民との交流の中から生まれたものと言えます。

さて、物語の舞台は、昭和の初めの東京都と千葉県の境を流れる江戸川の下流にある、貝と海苔と釣場で有名な漁師町の浦粕町です。
この町に住み着いた周五郎は「蒸気河岸の先生」と呼ばれていました。

ある日、私は「大蝶」の倉庫番をしている芳爺さんに捕まり、町のみんなが、“ぶっくれ舟”と軽蔑する“べか舟”を買わされてしまった。その舟は青に塗られたペンキがあちこち剥がれ、今にも壊れそうなモノであった。・・・・・
※「大蝶」とはこの町で一番の缶詰工場を経営している会社で、大蝶丸という大型船も所有している.

欲しくもない“べか舟”を買わされた私は「いいさ、あんな舟。乗らなければいいんだ」と半ば諦め、代金を払ってからもそのままにしていたが、芳爺さんが青べかを届けに来た。仕方がないので、土手へいって、洗い場に舟をつないでおいたのだが、案の定、その日の午後おそく、洗い場で子供達の喚声や罵倒、そして石を投げる音が聞こえ、“青べか”は修理して間もなく、散々な洗礼を受けてしまった。・・・・
子供達がやがて飽きた頃、私は青べかを出航させたが、このぶっくれ舟は手に負えないあばずれのまぬけで、私はもう少しで海まで流されるところを“房なあこ”の舟に助けられた。・・・・・

繁あねは町中で最も汚い少女だと言われていた。年は13歳くらい。
乞食あま。親なしで家なし。墓場に供える飯や団子を食う餓鬼。
それがお繁であった。
お繁の父・源太は釣舟の船頭で鱸釣りの名人であった。
ある霧の深い日に大型機械船に追突され、舟を沈められてしまった。
源太は方々訴えて回ったが、誰にも相手にして貰えずとうとう酒びたりになり、女房や子供に手をあげるようになった。こうしているうちに女房は若い男と出奔した。そして間もなく源太も出奔し、お繁と乳飲み児の妹は親たちに捨てられた。
町では姉妹を引き取ろうという者はなく、役場で面倒をみることになったが、現実的にはなにもしなかった。
お繁は夜になると海苔漉き小屋であれ、消防のポンプ小屋であれ、どこかの納屋であれ、好きな場所で寝た。乳飲み児の妹をどうやしなったかは誰も知らないが、赤子は丈夫そうに育っていた。・・・・・

私が沖の百万坪を歩いていると、三つ入りの水路で少年たちが魚をしゃくっていた。近よって覗いてみたとこ一ろ、バケツの中に鮒が十二三尾もいた。ひらたという川蝦や、やなぎ鮠もいたが、鮒のほうが多く、それも三寸くらいの手ごろな形のものであった。私はちょっとふところを考えてから、おもむろに少年の一人に話しかけた。するとかれらは号令でもかけられたように、水の中でしゃくっていた者も、バケツの番をしていた者も、魚を追い出すために杭や藻の蔭を突ついていた者も、いちどきに私のほうへ振り返った。
「蒸気河岸の先生だ」と一人が他の者に囁き、それから洟を横撫でにして私を見あげた。
「なんてっただえ」
その鮒を売ってもらえないか、という意味のことを私は繰返した。かれらの顔になにか共通のものがはしり、さっと緊張にとらえられるのが認められた。そのとき私は「しまった」と思った。なにがどう「しまった」なのか不明のまま、ひじょうな失策をした、ということを直感したのであった・・・・・

私が晩めしのあと、独りで酒を啜っていると、窓の障子を開けて「喜世川」の栄子が覗いた。「喜世川」というのは“ごったくや”と呼ばれ、料理や酒よりも、女中たちによる特種サービスを本業としている店であり、栄子もその一人である。
栄子は、私が隠しそこねた一升瓶を飲みながら「あたし心中したことがあるのよ」とその顛末を話しはじめた。
相手は、岸がんと呼ばれ、売薬で名高い「峰岸屋なにがし」という店の外交員であった。岸がんには妻もあり子供も3人いたが、栄子に本気になり、半年の間に店の金を500も使い込んでしまった。彼はその使い込みを支配人に見つかり返済を迫られたがとうてい都合のできる金額ではない。できなければ手がうしろへまわる。それでは妻子にも世間にも顔むけできないうえに、栄子とはなれて生きられないから、いっそ二人で催眠薬を呑んで死のうと誘われる。・・・・・

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