一言の重み

 この<三文役者の哀歓>を書き始めて2年が過ぎた。大志を抱いて、法律家になるべく東京に出た私が、3年も経たぬうちに、偶然に出会った演劇に感動をし、己の才能に何の疑問も持たず、誰に相談をする事もなく、一直線に演劇の世界に走っていったのは、イノシシ年であったためだろうか?

 いや、単に愚かな若者であっただけであろう。

 私が最初に飛び込んだのは「劇団四季」だった。当時は前衛的なフランスの作家ジャン・ジロドウとジャン・アヌイの作品を交互に公演する劇団で、劇団員は「演劇研究所」で、そうそうたるメンバーによる講義を受けた。

 鬼頭哲人(アヌイの翻訳者)、米村あきら(ジロドウの翻訳者)、篠田一士(現代評論)等々…。

 法科の学生だった私にとっては、大学の講義より難しい講義であった。


篠田一士氏
 しかしその中で、篠田一士氏の一言が私の生涯を決めたといっても過言ではない。

 「人間は25歳までに読む本の量で一生が決まる。男は評論を読め」

 雲をつくような大男の篠田一士氏の豪放磊落(ごうほうらいらく)な語気の中に、悪戯(いたずら)小僧が第二次世界大戦を起こした大人たちを揶揄(やゆ)しながら、楽しそうに講義していた。

 その時、私は中原中也の詩集を読んでいた。

 そして中也の恋人を奪った男、小林秀雄の評論に出会った。

 「評論を読め」に、触発され、小林秀雄にのめりこんでいった。

 「ランボー」「様々なる意匠」「ドストエフスキイの生活」「私の人生観」「無常という事」「ゴッホの手紙」「モオツアルト」「近代絵画」……。

 すると、「ランボー」の評論を読む、ランボーの著作を読破、さらにベルレーヌを読まずにおられず、ベルレーヌを読むとボードレーヌを読まずにおられず、という具合につい次から次へと広がっていった。

 「ドストエフスキイの生活」を読むと、ドストエフスキーの「地下生活者の手記」から「罪と罰」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」等々何年かかったことか。

 「無常という事」を読んだ後は、「徒然草」「実朝」「西行」にいき「蕪村」から「一茶」へと世界が広がった。

 「モオツアルト」を読むと、毎日、名曲喫茶へ行くようになった。片っ端から聴いているうちに、バロック音楽の巨匠ハイドン、バッハまで聴くようになり……。

 「近代絵画」を読んだら、山手線の恵比寿から片道切符を買って東京駅八重洲口を出て「ブリジストン近代美術館」をかわ切りに、銀座九丁目まで、ありとあらゆる画廊を回り(ささやかな酒のつまみにありついたりしながら)日が暮れるまでさ迷い歩いたことが何年続いたことか……。

 そういえば、入団して間もない頃、稽古(けいこ)場の隅で台本にかじりついていると、17、8歳の若い女の子に「アヌイを理解するにはカミユを読まなきゃダメね」なんて云(い)われて頭に来たこともある。

 そのころ、俳優・水島弘(東大・仏文出)の演技実習の授業がカミュの「誤解」という戯曲で、レッスンは原語だった。まるっきりちんぷんかんぷんで、仕方なく自分でいろいろな本を読んでいくことにした。

 「アヌイの師匠はジロドウであり、ジロドウの師匠はラシーヌであり、ラシーヌの師匠はソホークレス(ギリシャ悲劇の作者)である」…なーるほど。そうして、なにか数学の方程式のように解けてくるような喜びに浸ったものである。

 その後、タクシードライバーになって(40歳)一年目に「松本清張」を読破し、二年目に「司馬遼太郎」、三年目に「山本周五郎」、四年目に「池波正太郎」と次から次へと読んでいったが、どんどん忘れていった。

「人間は25歳までに読む本の量で一生が決まる。男は評論を読め」

 まさに、20代に読んだものは、頭の隅にというか腹の底に、しこりのように溜(た)まって体から離れないのである。


(C) The Yomiuri Shimbun Osaka Head Office, 2000.