忍の一字

 先週10月22日(火)夜8時、フジテレビで怪談百物語「耳なし芳一」(主演・岸谷五朗)が放映された。私も出演していたのである。

 壇ノ浦で滅亡した平家の亡霊に「平家物語」を語らされる盲目の琵琶法師の芳一を主人公にした有名な怪談をモチーフにしている。芳一の身を守るために、全身に経文を書き込み、亡霊から姿を隠すののだが、その経文を書く和尚の役が私だ。

 撮影は京都太秦の松竹京都映画撮影所で、真夏の7月末であった。いや、真夏であったなんて一口で、軽々しく云(い)える日ではなく、正しく猛暑であった。

 前日スケジュール表がファックスで届いて驚いた。
 私の入り時間は午前9時、撮影は午前10時開始で何の不思議もなかったが、主役は午前5時入りと書いてあったのだ。
 当日。午前10時にオープンセットに入ると、主役の姿は見えなかったが、頭半分坊主の人、片腕だけ、片足だけ般若心経の書いてある人たち、場面が進むごとのカットで「出演」する「影武者」たちに、スタッフが4、5人駆り出されていた。

 本堂のオープンセットは出来上がっていた。
 静かな待ち時間が何分あったであろう……。
 主役の岸谷五朗氏が入ってきた。六尺褌(ふんどし)をつけ全身裸で、一字3センチほどの大きさで般若心経がびっしりと体中に書いてあった。午前5時入りの理由はこれだったのだ。

 スタッフに緊張感が走った。彼は集中しきっていた。通り一遍の「オハヨウございます」なんて挨拶(あいさつ)できる雰囲気ではなかった。

 むせ返るような空気が、いっときの無駄な時も許さない空気が漂っていた。何よりも汗が大敵であった。主役が丸茣蓙(ござ)の上に座り、和尚(私)が後ろに回って字を書くスタンバイ完了。扇風機ストップになる。私の袈裟(けさ)の背中で汗が滴り落ちる。主役の皮膚に汗が滲(にじ)んでくる。セリフのカットに行く前に、頭をそったり、原作とは異なり耳の中に文字を書いたり、短いカットが入る。主役はまた身体を冷やすために冷房のある控え室に帰ってゆく。ツーカットほど撮ったところで昼食になった。

いよいよ私のセリフである。

 シーン・44 本堂

 剃髪(ていはつ)した芳一の頭に経文を書いている和尚。
 和尚「(筆を置いて)……よし。これでこの経文がある限り、亡霊どもにはお前の姿は見えぬし、触れることもできぬ。今宵一晩無事に過ごせば、亡霊どもに取り殺される事もなかろう。……だがいいか、決して声を立ててはならぬぞ。声を出せば、亡霊どもにお前の存在を気取られる。だから何があっても、沈黙を守るのだ。よいな」

 主役の苦痛を考えるとトチるわけにはいかない。彼は朝5時から特殊メイクをし、褌一つで、頭のてっぺんから足の先までびっしり般若心経を書かれ、横になる事も出来ず、冷房と猛暑の中をいったり来たりして8時間経っているのである。

それもほとんど無言のまま集中しているのだ。私の方も、いつもの慣れた京都のスタッフと違って、東京のスタッフ中でいつになく緊張していた……実は、私はいったん座ると自力では立てず、両側からスタッフに抱えられて立たなければならず、もう大騒動なのだ。

私のセリフのトチリは一度もなく、みんな優しくしてくれ、無事撮影は終了した。終わったのは午後4時であった。

しかし、主役はその姿のまま夜間撮影に入ったのである。テレビに映ればほんの4、5分のシーンだ。

 岸谷氏が次のセットに入る後姿を見送りながら、役者の忍の一字に支えられているのだと、つくづく思い知らされた一日だった。


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