先日、稽古場のテレビに古い映画が映っていた。
「ここに泉あり」−−戦後間もなく、群馬県高崎市のアマチュアの音楽愛好家たちが市民楽団を結成する様子を描いていた。
日本で二番目の歴史を持つオーケストラとして知られる群馬交響楽団の前身、高崎市民オーケストラをモデルにしている。第一バイオリン・岡田英次、ピアノ・岸恵子、ほかに加藤大介、三井公次等々、そしてマネージャーが小林桂樹であった。
今井正監督の昭和30年(1955年)の作品だ。
食べるものものない時代で、演奏料は野菜や芋…演劇と楽団と、分野も違い、時代も違うが”舞台”にかけた人たちの姿の哀歓に、自分の姿も重ね合わせて。胸詰まる重いで見ていた。
走る列車の窓側につるつる頭の紳士が映る。
――作曲家の山田耕筰氏だ…役者じゃなく本人が出演している。
山田氏に話し掛ける若いマネージャー。
――なまっているな…九州…熊本のなまり…あ!
黒髪もふさふさとした若い姿だったが、このなまりは忘れられない…伊沢一郎さんだ。
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伊沢一郎さん |
伊沢さんは、明治45年の生まれ。昭和5年(1930年)日活太秦に入社し、田坂具隆監督の「かんかん虫は唄う」でデビュー。第二次大戦前には「緑の地平線」「五人の斥候兵」などに出演し、戦後も「二百三高地」「刑事物語3 潮騒の詩」に出演した。
また、テレビのウルトラマンシリーズにも出ている――と資料にある。
が、私は、そのほとんどを知らない。ただ、亡くなる、ほんの少し前に、平成5年(1993年)ごろだろうか、東映の京都撮影所でご一緒した時の思い出があるだけだ。
それは、確か「遠山の金さん」だった。長いセリフはないが、ちょこちょこと出番があって、二日間の撮影だった。
楽屋で、白髪の役者さんが「やあ、よろしく」とにこやかに挨拶した。
その人のよさそうな親しみのこもった笑顔と声が忘れられない。かすかになまりがあった。そのなまりが、人柄の奥行きを語るような、そんな温かみのあるなまりだった。
それが、伊沢さんだった。
撮影開始。セットにはおじいさんの役の伊沢さんと、私…それから…今となってはちょっと思い出せない。
監督「ヨーイ スタート」
・・・・・・・・
伊沢さんが話し始めた時、突然、若い録音技師が言った。
「なまってるよ」
現場に気まずい雰囲気が充満した。と、その瞬間、監督が怒鳴った。
「ウルサイ! 要らんこと言うな!」
当の伊沢さんは……ぺロッと舌を出して苦笑いなさった。
東映の現場スタッフは、映画製作に誇りを持っていて、「人気スターなにするものぞ」という気概を感じさせる人が多い。人気が先行して、発声などの鍛錬の足りない役者が、不明瞭なセリフだったりすると、「だめ、もう一度」と録音技師が監督より先にダメだしをすることもある。
しかし、この時ばかりは、録音技師の勇み足だった。伊沢さんがどんな人か知らなくても、あの、温かいなまりにこそ、その人柄が表れ、監督もそれを承知で、それが気に入って使っているのだ。その現場の雰囲気が読めなかったのが、録音技師だったという訳だ。
「すみません」
録音技師の一言で、撮影は再開された。
食事の時間、伊沢さんに誘われた。
伊沢「いや〜、さっきはどうも」
徳田「いや〜、どうもどうも」
伊沢「まあ、私のなまりは、もう、お墨付きみたいになってて…。徳田さんはなまりはありませんねぇ。出身はどちらですか?」
徳田「私は両親が鹿児島ですが…」
伊沢「鹿児島ですか。私は、熊本でね…でも、おかしい。九州の人は、なまりがとれないでしょ。九州の人がなまらないのはおかしいなぁ」
徳田「はあ、ま、私が生まれたのも育ったのも大阪ですから…」
伊沢「なるほど、それなら分かる。分かります…」
徳田「……」
伊沢「何しろ私の人生はなまりとの闘いでした…。こんなチンチクリン(背が低くて)、いい男でもない。何の才能もない男が俳優になれた…そんな時代もあったんですねぇ。なまりが強い、何の才能もない私のような男が、この歳まで俳優として生きて来たのは不思議なくらいですよ」
徳田「……」
伊沢「才能のない人間が、何かのカン違いから、一つの職業を選ぶことの怖さが分かって、何年になりますかねぇ。…年とともに下手になってゆく私を、みなさんよく使ってくださいました。感謝です」
しみじみとした声だった。文字にすると、まったく標準語なのだが、その抑揚が、独特のお国なまりに彩られていた。それは芝居のセリフのようだった。
徳田「私、劇団やってましてね。年に2回は東京でも公演やってます。若い劇団員といっしょにやってます」
伊沢「それは、いいですね。ぜひ観に行きます」
徳田「よろしくお願いします」
そうはいってもなかなか劇場へ足を運んでくれる人は少ないのだが、伊沢さんは次の東京公演に来てくれた。
終演後、劇団員と整列してお客様を見送っていると、
「徳田さん! 徳田さん! 来たよ。よかったよ!」
と声がする。伊沢さんの声は、やはりかすかになまっていた。膝が悪いとかで、手すりにつかまりながらゆっくり、ゆっくり階段を降りてこられた。
「あ、ありがとうございます。来て頂いたのですね」
「約束したじゃないですか…」
私が、伊沢さんを支えようと手を出すと、その手をがっちり握られた。
80を越えたお年よりにこんな力があるのか、と驚いた。
その手を握ったまま
「あなたの劇団員の子どもたちは、幸せですね。本当に楽しそうに生きている。私は今までこんなに楽しく芝居をしている若者達と出あった事がない。元気を頂きました。ありがとう。ありがとう」
瞳に涙が光った。
「子どもたち」と呼ばれた若い劇団員たちも、手を握り見詰め合って涙ぐむ二人の「老人」を静かに見守ってくれた。
それから、伊沢さんは2回公演に来てくれた。
3回目の公演案内は、「訃報」という形で返信が来て、もう見てもらえることはなかった。
その伊沢さんが、映画に出ている。
山田耕筰氏としゃべるときも、小林桂樹と話すときも、あの時に、私に話し掛けてくださった言葉と同じ、心地よいなまりだった。やはりあの温かみのあるお国なまりのまま、マネージャーを演じていた。生き生きと、楽しそうに…。
伊沢さん、「楽しく芝居をしている若者達」といっしょに仕事してたじゃないですか。あなたも楽しく芝居してるじゃないですか…。よかったなぁ。
なぜか、止め処もなく涙があふれてきて、どうしようもなかった。
(C) The Yomiuri Shimbun Osaka Head Office, 2000.