先日、2002[賭博(とばく)者]の追い込みの稽古(けいこ)の真っ最中、1通の手紙が舞い込んできた・・・。30年以上も前、松竹芸能に所属していた頃、われわれのマネージャーをしてくれていたK君からだった。
私は仰天した。
K君は、昭和44年(1969年)ころ、同志社大学を卒業し松竹芸能に入社して、京都東映撮影所回りのマネージャーとして配属されてきた。一回り年下だったが、一心に駆け回る姿が気に入って、よく一緒にいたものだ。下宿も、松竹芸能のある大阪と撮影所のある京都のちょうど真ん中、阪急京都線沿線の「総持寺」駅の近くに私が探して世話をしたのである。
そのK君が「間もなく死ぬ」と手紙を寄越してきた。しばらく声が出なかった。
わがまま?不躾?非礼?…前もってお詫び?
こんな手紙はかつて一度も手にした事がない。
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K君はこんな表情だった |
K君とは、もう20年以上も音信がなかった。今ごろになって、なんで、こんな手紙をくれたのか?
彼は私が松竹芸能に所属していた頃、テレビの時代劇映画が勃興していた。
「素浪人花山大吉」:近衛十四郎さん(松方弘樹さんのお父さん)が、オカラが大好きな変な浪人を演じ、品川隆二さんの焼津の半次とコミカルな掛け合いが人気を呼んだ。
「遠山の金さん」:♪ご存じ長屋の金さんが、もろ肌脱いでべらんめぇ…市井に隠れたお奉行様が、悪事を暴く人気シリーズ。初代は金さんは、中村梅之助さんだった。
「銭形平次」:大川橋蔵さんが演じた平次親分は、昭和41年(1966年)5月から59年(1984年)4月まで17年11カ月も続き、888回にわたって放映された。
K君は、いつも撮影所にいた。いつも台本を小脇に何冊か抱えていた。あまり喋らず、撮影所で顔を合わせると
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大川橋蔵さん |
「徳田さん…こんな役なんですけど、お願いします」
と脚本(ほん)を差し出す。「セリフが少ないですが…」とまでは、言わない。
その恥らったような表情でそれと分かる。
大体、悪役だ。庶民をいじめるやくざの親分。平次親分の「カタキ役」で、袖の下が大好きな悪徳岡っ引。生臭坊主…。現在の連続ドラマは、同じ人間が何度も悪役で出てくると、リアリティがない、とか言って、同じ役者を違う役で1年間に何度も使うことはない。しかし、そのころは、4週間たてば、また使ってくれたものだ。
だから、私なんか、銭形平次に年間10本くらい出ていた。
私は、彼が「お願いします」と持ってきたのは何でも受けた。K君が台本をよく読みこんでいて、誰にどの役を頼めばぴったりはまるのか、ツボを心得ていたのを知っていたからだ。そんなまじめさと誠実が認められて、K君は松竹芸能のマネージャーから「銭形平次」のプロデューサーに転じた。昭和59年(1984年)12月、大川橋蔵さんがなくなった。橋蔵さんの死後、K君との音信もなくなった。
その彼が20年近くの歳月を経て、「私の人生の幕を少し早めに降ろさざるを得なくなりました」との便りを、くれた。
……
K君よ。俺は怒っているぞ。あれほど、台本を読み込んで役を振ってくれた君が、自分の人生劇の脚本は、前編だけしか読ませてくれてないやないか。
後編の脚本(ほん)をくれんと、ラストシーンにどんなセリフを言えというのや?。
……
K君よ。俺はホントに怒っているぞ。
俺は、君の「こんな役ですけど…」は断ったことがないはずや。
そやけど、今度の役は断るぞ…。
そして、3月末、「彼を偲(しの)ぶ会」から案内状が届いた。
――去る3月26日我らが友、Kさんがなくなりました。
発起人は知らない人ばかりだったが、一人だけ知っている名前があった。橋蔵さんの奥さんだった。
大川橋蔵さんは、自身がガンで余命幾ばくもないことを知っていたそうだ。そして、死の直前の12月4日、「おれの命はあと3日だ」といったそうだ。そしてなくなったのは12月7日だった。…K君が、このことを知っていたのかどうか、もう聞くすべはない。
「人は誰でも死ぬ」
私は、自分はその時が来たら誰にも知らせず、天涯孤独で、家族にもみとられることなく、静かに消えていきたい。
私は、そう思っている。
合掌