先日「ほんまもん」収録のとき、思いがけないことが起こった。
主人公「木葉」のためのお祝いのシーンである。(何のお祝いかは、この際、放送までのお楽しみとさせていただく)
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21歳の小生 |
そこで、いきなりディレクターが
「徳田さん!」と声を掛けてきた。
「何です?」と私。
「ここで”大阪締め“をお願いします」
「???…オーサカジメって何ですかぁ?」
あっちこっちから「ええっ!」と驚きの声があがった。
思えば私は上方文化にほとんど興味を持ったことがなかった。
確かに私は大阪で生まれて大阪で育ったのであるが、両親が奄美大島出身で、2人とも死ぬまで、家では奄美の言葉しか使わなかった。
特に母親は大阪が嫌いで、唯一の遺言は「私が死んでもミノルの本籍は大阪に変えたらあかんよ」であった。
父は5人(男3人、女2人)の子供を残して先の女房に死なれ、私の母親になる女性と再婚した。実母の方は、実母で2人の男の子を抱えて、亭主に先立たれ、親の命令で、38歳で、奄美から大阪へ嫁いできたのである。
そして39歳で私の兄が生まれ、42歳で私が生まれた。
合わせて9人の子持ちになり、サラリーマンの妻になった母の苦労は、筆舌に尽くせぬものであったろう。私が物心ついたときは母の連れ子の長兄は住み込みで働きに出て家にはいなかった。次男は14歳で尋常高等小学校を出ると1人で満州へ旅立って行った。
私は小学校を出ると父親に「働け!学校にやる金なんかない!」と言われ、中学1年生からアルバイトしながら学校へ行った。
「生活」の厳しさが身にしみているだけに、「賑やか」なところがあまり好きではなかった。「天神祭り」も「エベッサン」も行った事がない。「初詣」でさえも行きたいと思ったことがなかった。
母親は私に「大阪」を出て「東京の大学」へ行けと言った。私も、高校を卒業すると、喜び勇んで東京に出た。無事大学に合格し、法律の勉強している時21歳の秋、偶然、劇団四季の芝居を観て感動し、学業を放り投げ入団した。劇団の生活は明けても暮れても、フランス文学の話ばかり。時は実存主義、サルトル、カミュ、アヌイ、パルュビス‥‥アウトサイダー華やかなりし時代であった。
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劇団スタジオ鏡創設時 46歳の小生 |
あっという間に7年が経った。
そして突如「チチ タオレタ スグカエレ」。
それで大阪に戻ったのだが、「故郷」の懐かしさは感じなかった。
葬式等、諸々のことが済んだらすぐ東京に帰りたかった。テレビから流れてくる大阪の匂いのするものに嫌悪感を抱き、拒否反応が起きるのをどうしようもなかった。
…これが、大阪という町に対する私の偽らざる深層の感情なのだ。大阪は私にとって、故郷では決してない。「異郷」なのだ。そして、私はここでは「異邦人」だ。
だが今、東京へ芝居を持っていく度に「さすが大阪人の感覚の芝居だ、面白い!」と言われる。大阪でも「鏡の芝居は大阪の芝居やないなあ、モダンジャズの世界や、国籍不明!」。嗚呼。「大阪」に違和感を感じ続けたのに、「大阪の感覚だ」と評価(?)される皮肉さよ。一瞬のうちに、人生を振り返っていた。
そして、共演者の声で我に返った。
「徳田さん!大阪締め知らんのでっかぁ?」
「徳田興人=大阪人」の虚像が音を立てて崩れた瞬間である。
本番は桂三枝師匠に代わって締めていただいた。
「うーちまひょ、チョ〜ン、チョン、もひとつせぇ チョ〜ン、チョン 祝おうて三度でチョ、チョンのチョン」
?????なんと間延びした、「手締め」だろう。こんなリズムは私にないことだけははっきりしている。
今度、「なぜ大阪締めをしなかった」と聞かれたら、異邦人のムルソーのように答えようか。
「ライトがまぶしかったから」