美味しいものって、何?

 NHKの朝の連続ドラマ『ほんまもん』の撮影が始まった。

役柄で一口味わう旬の味
 初日は大阪ミナミの、とある粋(いき)な料理屋でのロケである。撮影準備の間に役者は衣裳に着替えのため二階に案内された。驚いたことにそこには役者のために五目飯が用意されていた。みんな美味(おい)しそうに食べていた。

 残念だが私の神経は受けつけない。昨夜から何百回となくセリフが頭の中を駆け巡っているのだ。胃に血が降りて行くスキはない。だいたい仕事の前に私が口にするのは喉(のど)アメと麦茶くらいのもので、適当な空腹状態でなければ芝居に集中出来ない。階下から出番の声がかかった。

 私の役は有名な写真家で美食家でもある。この日は新しい店の試食会という設定である。今日の料理の食材は<魚は明石の鯛、鳥は名古屋コーチン、それに旬の京野菜>である。料理の楽しみは「見た目」「かおり」「味」の三つだと思う。

 最初に驚かされたのは、中華風の大きなお椀で、蓋(ふた)をとると鯛の頭「かぶと煮」であった。真っ赤でテカテカと光ってて、油絵の静物画を見ているようで思わず箸を取ると、どこからか声が飛んできた「本番まで箸をつけないで下さい!」

酒なくてなんでこの世の美食かな

 慌てて蓋をしたのだが、何か落ち着かない・‥・やがてテスト。テストがすみ、やっと本番が来てお椀の蓋を開ける。恐る恐る口にはこび少し噛(か)み砕いたところで「カット!」の声がかかった。ゆっくり味わう暇もなく、次のカットに移っていた。

 次は鳥と京野菜の和え物である・・‥今、思い出そうとしても思い出せないほど淡い?上品な食感であった。少し焦げ目のついた名古屋コーチンの皮が香ばしかったような気がする。勿論(もちろん)一口食べてカットである。

 最後に出てきたのは「鯛の杉板焼き」。
厚さ5ミリで6センチ四方の杉の皮2枚の間に一口大の鯛が挟まって紐(ひも)で括(くく)って蒸し焼きにしてあるものだ。食べる時は、その紐をほどいて板をはがし、鯛だけを食べるのである。杉の木の香りが微(かす)かに鯛に移って、何か不思議な味がした。ここまで来てやっと料理の味が分かりかけたような気がしたが、それで、初日の撮影は終わってしまっていた。

鯛の杉板焼き(徳田筆)


 役者が芝居で料理を味わうなんてとんでもないことなのだろうか? 思えば、ほとんど何も食べてない。それどころか「料理人に対する心配り」「食材の鮮度を保つための時間の計算」「役者の食べるキッカケとセリフのタイミングの合図」――いろいろの段取りを考えているスタッフの神経が痛いほど見えてくると、役者は味を楽しむどころではない。

 そして私にとって一番辛かったことは、試食会とはいえ、料理に一番欠かせない大切なものがテーブルになかったことである。それはアルコール―― お酒。昼にざるそばを食べても冷酒を一杯、ラーメンでもヒールを一本。撮影のセットのテーブルには徳利(とっくり)と猪口(ちょこ)はあったが、中は水であった。当然といえば当然だが、身体の要求はどうしようもない。

撮影終了――。
外へ出た瞬間、叫んだ。
「ああ、ビールや! ビ−ル!」



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