いつの頃であったろうか、若者がコンビニの前で地べたに座ってたむろしたり、電車の中で座席が空いてるのに入口近くでへタリこんで携帯電話を掛けたりするようになったのは・・・・

絵とき
 先日もワッハ上方の本屋さんへ行って驚いた。入口のすぐ側で5・6人の若い女の子がミニスカートの下の大根足を投げ出して座っている。ジュースを飲んでいるもあり、煙草を吸いながら携帯電話しているのである。何をか云わんやである。つい最近まで、あえて差別用語を使わせていただくとゴジキでもない限り道端に座る人は見かけなかったように思う。

 理解に苦しむ現象である。根底は‥‥教育なのだろうか?

 思えば、18年前の贋作「セールスマンの死」の中で、少女Aのセリフは「今の世の中何も恥かしいことあらへんて、お国の一番偉い人が5億円の賄賂(ロッキード事件)もろうてシラ切りよるわ、バクチの元締め(日本船舶協会の会長)が国連平和賞もろうっていきっとるわ、なんにも芸のない落語家がちょっとテレビで顔売れたから云うて、子供は犯すわ、捕まってもすぐ出てきて、テレビのまえへしゃしゃり出てきて‥‥・」となっているのを、今の時代に合わせて書き変えようとしても何の苦痛もなく置き換えられることが山ほどある。

絵とき
 代議士、裁判官、教師、警察官、公務員等々本来ひとに尊敬されるべき職業の人間の不行跡が多過ぎる。代議士の選挙違反、それも多数の公務員を巻き込んでなんてとんでもない話である。神奈川県警のあいつぐ不祥事、隠蔽工作。奈良県警の佐川急便との長年の贈収賄。裁判官の買春行為、中学教師の女子中学生を‥‥等々数え上げると切りがない。

 僕たちが子供の頃は「何になりたい?」と聞かれたら即「兵隊さん!」とか「陸軍大将!」とか「学校の先生」が大多数であった。これがいいとか悪いとかの問題ではない。

 今、子供に何になりたいですかと聞いても、子供は即答出来ない。何故なら、親が子供の夢を片っ端からぶち壊しているからである。教育が国の未来を左右することは偉い学者が云わなくてもみんな分かっているはずである。

 私は人間は少しずつでも進歩する「葦(あし)」だと信じたい。だが約20年近くたったわが国はどんどん後退していくように思われてならない。そう思うのは私だけだろうか?

 テレビに映る東南アジアの子供たちは経済的には貧しい暮らしをしているようだが、その日はキラキラと輝いている。日本の子供は派手な衣装を着て一見リッチを装ってるが目がうつろである。

 どんな立派な教科書を作っても、大人たちが己自身を教育出来ないようでは何の意味もない。私は何としても子供たちに“目的”を持って生きて欲しい!

“自恃(じじ)”を持って生きて欲しい!私が演劇に情熱を燃やすのは、唯一その願いからだけである。

 若者よ、地に落ちないでくれ!頼むから道端にヘタリ込むのはやめて欲しい!私の心はまだ20代でこれから己を鍛えて行くのみである。


(C) The Yomiuri Shimbun Osaka Head Office, 2000.