限りなく歳月が流れて行く・・・・・

学生たちのプロデュースで成功した演劇舎徳田塾の公開ポスター
 劇団を立ち上げ走り出したが、医療保護と生活保護に支えられているだけで、生活はお先真っ暗であった。が、思わぬ人との出会いが待っていた。

 ポエムシアターで私は森鴎外作『高瀬舟』を座ったままで20分語った。その時、お客さんの中に田中徳三監督(市川雷蔵の「眠狂四郎」や勝新太郎の「悪名」を撮った監督である)が見に来られていた。数日して、「必殺仕事人」出演の話が舞い込んで来た。

 監督は田中徳三監督であった。世は田中角栄全盛の時。いただいた役はその田中角栄を彷彿(ほうふつ)とさせるような、政界を金で動かす悪の大僧正、その名も『角明』。勿論頭は剃髪、(ていはつ)金の茶室で茶を立てながら、どこか気の弱い家老をおどし、延々と語るシーンであった。

 今でも思い出すとゾクゾクする。私は頭を剃(そ)ったのも生まれて初めてなら、お茶を立てるのも初めてであった。撮影に入る3日ほど前から、我が劇団の稽古場で夜中に集中して連日お茶の作法の稽古。どこからカメラで狙われてもいいように、長いセリフのカット割りを自分で設定し、茶を立てながらのセリフの稽古は時間を忘れさせた。

 撮影当日セットに入り、茶釜の前に座った時は思わず笑みがこぽれた。監督と目線があった。「徳田くんやけに嬉しそうやね、何かええことあったんか?」
わたしは何故か慌てて
「いいえ、別に・・・・」
とは言ったが、顔がなかなか締まらなかった。

 撮影中、カメラがどこに据えられても、私はビクともしなかった。初めて尽くしの仕事がこんなに心地よく出来たことに我ながら驚き、喜びを禁じ得ぬのであった。
(森鴎外の文体が頭から離れな〜い・・・・)


タクシードライバーを熱演する稲健二(左)
 お陰様で生きる自信を取り戻した。
 坊主の仕事が次から次と入って来た。

 ちょうどその頃、甲南大学の学生が劇団に来て「大阪港で帆船祭があります。そこのテント劇場で『贋作タクシードライバー』を我々の手でプロデュース公演をしたいのですが、やって頂けますか?」ときた。こちらは二つ返事でOKを出した。

 稲 健二−タクシー運転手役の初舞台である。地獄のしごきが始まった。

 彼は耐えた本当によく耐えた。だが突然、学生たちがあたふたとやって来て「大阪港にテントを立てるのが無理になりました。でも絶対にやります。どんなことがあっても劇場を見つけてきますので稽古を続けて下さい。」と云(い)って帰って行った。私は彼らを信じた。

 数日して「見つかりました!見つかりました!心斎橋の南海ホールです!話しはつけてきました、チラシもチケットも発注して来ました」学生たちの嬉しそうな顔を今でも忘れない。

 その学生たちが、就職し結婚し、子供も出来て家族で芝居を観に来てくれる度に、胸が熱くなり、嬉し涙が溢れるのを止めることが出来ない。思えば20年の歳月が流れたのである。

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 『テアトロ』 59年3月号 1月の関西  大川達雄記
 徳田興人を主宰として1昨年7月に結成された演劇舎徳田塾が昨年暮れ、「贋作タクシードライバー'83」(12月16、17日、南海ホール)で大阪初公演を果たした。52年11月初演以来、10回目を数える徳田の代表作で、顔ぶれがほとんど入れ替わったため、内容は大幅に改められた。徳田は演出に専念し、持ち役の運転手を稲健二に譲ったが、予想以上の好演で、堅実な舞台に仕上がったのは何よりであった。冒頭の運転手と客のホステスの会話、運転手の一人語り、そして終幕の運転手の死。ドラマとしての強烈さも失っていない。なかでも「無礼な客は片っ端から殺す!」のセリフには、生々しいリアリティーがあった。初演の時の徳田・紅万子コンビとの遜色がない。全般に訓練の後がよくうかがえたのがなによりだ。入りは上々で、大阪での初公演を飾った。


(C) The Yomiuri Shimbun Osaka Head Office, 2000.