教育者といえども人間、だとはいえ・・・
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昭和55年当時の筆者 |
贋作『タワーリングインフェルノ』の大当たりで、東京公演(渋谷ジァンジァン)から帰ると、翌昭和55年3月、処女作・贋作『タクシードライバー』の阪急ファイブでの再演の話が持ち上がり、また大阪、東京(池袋文芸座ル・ピリエ)、大阪(スタジオ・あひる)と連続公演で大忙しであった。
その頃、1人の女性が入団した。以前、私がある音楽大学の演劇サークルのコーチをしていた時の学生で、卒業して中学校の音楽教師になったのだが
「"暴力教室"の生徒のような程度の悪さに我慢出来ず、一学期で辞めて来ました。演劇がやりたいです、入れて下さい」
何ともぶっきらぼうな物言いだった。顔は十人並みだが、音楽の教師になるくらいだから声は抜群だったので、喜んで入ってもらった。
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「贋作 ミスターグッドバーを探して」のポスター |
彼女の家族は4人で、両親、兄と家族揃って教師だったという。
ただ、話を聞いてみると、酒の上で暴力が耐えなかった父と家族の間はうまく行っていなかったらしく、彼女も人の愛情を求める一方で、人間関係を上手に保つのがうまくない――。どうもそんな感じだ。ひとつのことを心をそろえてやり遂げないといけない劇団のなかでうまくやってくれるのか・・・でも、うまくやってくれれば、彼女の成長にもなるはず・・・そう不安を振り切って見守ることにした。
しかし、・・・。
芝居の稽古(けいこ)に入って間もなく、彼女に小さな役をつけた。ところが舞台のソデで出番を待っているはずの彼女が、キッカケが来ても舞台に出て来ない! 怒鳴(どな)っても出て来ない。業を煮やしてソデに行ってみると若い男優と抱擁の真っ最中。芝居どころではない。彼女の目は中空をさ迷っている。何度注意しても駄目だった――。
間もなく、彼女は若い男優と姿を消した。
現実は芝居のように、なかなかハッピーエンドにはならない。・・・「そんなこともあるさ」と振り出しに戻った。
ちょうどその頃、アメリカ映画『ミスターグッドバーを探して』が大ヒット中であった。次回公演の題名が決まった―― 贋作『ミスターグッドバーを探して』。もちろん内容はアメリカ映画とは程遠いものであった。
贋作『ミスターグッドバーを探して』
<第一場>
老人とも、コジキとも、粋な男とも、教養のある男
ともつかぬ・・・さすらい男 登場
さすらい男 ♪青葉繁れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ・・・たし
か このあたりかな? 当たりをつけてきたものの・・・
はずれかな・・・当たりかな? かなかなかな その日暮
らしは悲しからずや あたりかまわず当たってみるか
(客に)今晩は・・・やったな―ウフフフ・・・きょうは
あたりや・・・・・・
幾時代かがありまして 茶色い戦争ありました
極楽橋の橋の向こうに 1トン爆弾眠っていて
いつ当たるかも知れないと 避けて通った色町の
とある飲み屋の その奥の 袋小路の 突き当たり
こうして始まった芝居も、大阪(阪急オレンジルーム)、東京(池袋ル・ピリエ)と大当たりであった。一方、体はいよいよ限界に近付いていたが、私のタクシーにまたとんでもない客が舞い込んできた。
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