オマケのうえに またオマケ

 昭和53年5月1日、贋作『タクシードライバー』で首にギプスをはめ、寝たきりのまま東京から車で護送されて帰って来た私を待っていたのは、7月の凱旋(がいせん)公演であった。

 5月いっぱいは絶対安静にしてないと命の保証はないと東京女子医大の先生に云(い)われたが、じっとしている暇はなかった。大阪芸大の教授の紹介でアベノ芸術センターホールに話はついていた。

凱旋公演のポスター
 出かけて行ったらいいお年の女性の館長だった。何か雰囲気がおかしいと思ったら、彼女が申込書の私の名前を見て「あなた、人の上に立つ人はこの名前では駄目(だめ)です。名前を変えないと劇場は貸せませんね、明日もう一度いらっしゃい、いい名前を考えといてあげますから」けんもほろろに追い返された‥‥・。

 訳のわからないままに翌日行くと、館長が『徳田興人』と『徳田憲人』と書いた紙を見せ、「どちらにします?どちらも運勢に大差はありませんから、どうぞ」

 私は「どちらでもいいです」と言うと、館長は「そんなエエカゲンな気持ちで決めてはいけません もっと真剣に!祈りを込めて!私は一晩かかって、あらゆる方向から検証したんですから」「ごめんなさい、では徳田興人の方を‥‥」

 館長は満面の笑みをたたえ「よろしい!では劇場費は半額で貸しましょう」

 だが、寄せ集めの劇団員の哀しさ、帰阪してすぐ半分は退団し、贋作『タクシードライバー』はそのまま上演出来ず、改訂版を書くしかなかった。

 しかし凱旋公演は勿論(もちろん)大入り満員であった。一方では、私は内心ひそかにこれで終止符を打とうと思っていたが、公演の初日の終演後、是非(ぜひ)私に会いたいというお客さんがきた。

贋作『タワーリングインフェルノ』のポスター
 大阪府泉南のある消防署員で、所謂(いわゆる)内部告発であった。「玉葱(たまねぎ)畑の広がるこの地区では全く火事が無い それをいいことに消防署長は警察署長、保健所の幹部と手を組んで風俗営業の許可書発行に関して賄賂(わいろ)をむさぼり、連日連夜、料亭で宴会。やがては政界に進出するため資金作りに躍起になっている。それを新聞社にタレ込んでも相手にしてもらえない、是非芝居にして欲しい」と云って来た。

 私は余り興味を持てなかったが、一応署長の家族構成を聞き「あなたがたの日常はどういう生活ですか?」と聞いてみると「朝、点呼を済ますと 形だけの点検をして 後はポーカー オイチョカブ 花札 賭(か)け事といえるものは片っ端から‥‥・人の不幸を待ってるだけです」その無気力な顔を見てるうちに、ムラムラっと怒りが込み上げてきた。

  どす黒い野心を腹一杯に食らい込み夜の街を徘徊(はいかい)する消防署長と、人の不幸を待つ時間の重さに耐えかねて、賭博(とばく)に明け暮れる消防署員‥‥・このコントラストはドラマになる。

 そして千秋楽の日、若者たちがロビーで待ち構えていた。大阪府立大の演劇部の若者達だった。「我々は今 どんな芝居をしていいか方向性がわかりません もしよければ 男6人女1人 面倒見て頂けませんでしょうか?」また芝居がやめられなくなってしまった。

  タイトルは決まった。贋作『タワーリングインフェルノ』サブタイトル"花の消防士 八百屋お八は生きていた"


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