芝居の世界へ舞い戻り

 今、事故が起きたばかりなのに2台のパトカーがすぐ側にいた。大淀署で一斉検問中、16才の少年3人が乗った4トン・ダンプが検問に引っかかり、十数キロもえんえんと高速道路をパトカーに追いかけられ、守口を出て仁和寺の交差点で止まっている私の車にブチ当て止まったのだ。

16歳の少年は立派な大人のヤクザの顔を持っていた
 私はパトカーで病院に運ばれ、ハンドルを飴(あめ)のように曲げた両腕は肩から吊(つる)してもらい、向こう脛(ずね)を5針縫い、腫(は)れ上がった太腿(ふともも)を湿布してもらい、よちよち歩きで10分、寝屋川警察に着いたのは真夜中の12時を過ぎていた。警官が少年を捕まえて帰ってきた。少年というよりも立派な大人のヤクザだった。

 しばらくして、取調室から出て来た警官が「君がタクシーの運転手か? ……あかんぞ! あの坊主からは一銭のゼニも取れんぞ! 親はおらんし 保険は切れとるし 無茶苦茶や! 保険金あてにしてずぼらかましとったら 己の首くくらなあかんど! 働け働け!」

 10日後、腰にコルセットを付け、出勤した。運転手からは「あれだけの事故やったら1年は休んでもらわんと 困るなあ」と云われ、会社側からと組合側の両方から労組の委員長に立候補してくれと誘われ、わけの分からないまま半年は無事だった。

 春爛漫(らんまん)の昼下がり、会社に帰って、昼食をすませトイレに行って、車に乗ろうかなっと思った時、誰かに呼び止められたような気がして振り向いた。瞬間、腰に激痛が走った。そのまま地球に吸い込まれるように、コンクリートの上にへたり込んでしまった。ガレージは桜が満開であった。天を仰いで寝ていたら、同僚の運転手が通りかかって「徳田はん えらいおもろい趣味ありまんねんな 仰向けに寝て花見するやなんて」私は激痛で声も出なかった。「キュウキュウシャ……キュウキュウシャ」と囁(ささや)くような声で云うと、同僚はびっくりして事務所へ走った。

<贋作『タクシードライバー』>上演当時のチラシ
 半年たって後遺症が現れたのだ。絶対安静、50日寝たきりになった。以前、俳優養成所で教えた女優の卵が見舞いに来て「大阪にはどこも面白い劇団はないし 東京の劇団に試験受けに行ったら落ちるし、先生、何か面白い芝居書いて下さい。そのまま死んだらもったいないやんか。先生がしゃべってくれはったら私が書きますから……。役者も私が集めます」「……よし 死に土産(みやげ)に何か書いたろか」

 春が過ぎ、夏の太陽がギラギラ照りつける頃、起きられるようになった。首と腰にコルセットをつけ、タクシードライバーにカンバックすると同時に、芝居の台本が頭の中で走りだした。8月の半ばには第一場ができ、役者がそろい、月水金をタクシー乗務、火木土日は芝居の稽古に入った。9月には一気に二場と三場が書き上がった。「劇団名はどないします?」と女優の卵に聞かれ「お前と俺が居るだけやから劇団『男と女』や、ほんで一発で消えるから〜うたかた公演〜、死に花咲かそ……」

 昭和52年11月23〜26日 大阪・島之内小劇場(島之内教会)で<贋作『タクシードライバー』>を上演したのである。

 あの事故がなければ芝居の道に戻ることもなかっただろう。あの恐い顔の少年を「神様の手先」と思うのはこんなことからだ。


(C) The Yomiuri Shimbun Osaka Head Office, 2000.