神様のいたずら

 昭和49年11月2日、私はタクシーの運転手になった。初めてのお客さんは、20歳くらいの可愛(かわい)い娘さんで、梅田から淀屋橋までだった。私は、どんな運転をして何を云(い)ったか、憶(おぼ)えていない。しかし、きっちり娘さんに見破られていた。
降りしなに「運転手さん 新米さんでしょ」
「ハイ 今日初めてで あなたが最初のお客さんです」
「そう 嬉しい 気をつけて頑張って下さい 少ないですけど オツリはご祝儀です」と云って、彼女は280円のところをピカピカの500円札を置いて、御堂筋の黄色に敷きつめられた銀杏の落ち葉の上を、ハイヒールの音も高らかに、颯爽(さっそう)とビルの中にすい込まれて行った。その娘さんの後ろ姿を、私は今も忘れない。

現在の淀屋橋交差点―初めて乗せた娘さんの後ろ姿は今も忘れない
 タクシードライバーは全く新しい世界であった。ひと月13乗務、月水金は翌日明け方まで仕事して火木土は明け、日曜日は公休。毎日、50〜60人、1月約600人、1年間で約7000人の人間とつき合って初めて教わったことが山ほどあった。密室の中での人間の悪意、恐ろしさ、優しさ……書けばきりがないが、ただ嬉しかったのは、連日平均5000円ほどのチップがあったことだ。

 それにしても運転手仲間にはかなり行儀の悪い連中もいてびっくりした。朝3時頃、ドロドロに疲れて、入庫して入金する時の日報を白紙で出す人間、1日中競馬場でヘタッテいるためにまるっきりデタラメを書いてバレた奴。バレて謝ると思ったら、逆うらみして暴れ出したのには、もう一度びっくりした。そんな連中ばかりではないが何か人生にけつまずき流れてきた人間が多いなぁというのが実感だった。

 しかし客の方も色々だ。バリッとスーツを着たサラリーマン風の人でも、こちらが「おはようございます どちらまでですか?」と云って「おはよう △△町まで」という人は10人のうちに3人だ。だいたいが「まっすぐ……」で終わりだ。「どこまでまっすぐ行きますねん!」という言葉を何度飲み込んだことか。夜の、酔っ払いが出没する時間帯になると、もっとひどくなる。

 私は将棋・野球・ゴルフの同好会をつくり、こんな職場のすさんだ空気をなんとか入れ代えることに努めた。やっと会社全体のムードが変わり始めた時は1年半が過ぎていた。

運転手もお客さんも人生いろいろ―昭和50年代初めの大阪駅東口タクシー乗り場で
 昭和51年の夏は過ぎ、夜風が心地よい一番暇な時間帯に、食事をしようと吉野家へ向かう途中、夜、9時半頃、本町4丁目から枚方までの客を乗せた。阪神高速信濃橋ゲートから入り、守口を出て、仁和寺の交差点ではじめて止まり、サイドブレーキを引き、ルームランプをつけた。「今のまに」とお客さんを乗せた時間や区間・料金などをつける日報を書き始めた時だ。

 グヮーンという轟音(ごうおん)と共にすべてが解(わか)らなくなった。しばらくして、後ろの座席から微かに……「運転手さん――早く――救急車――早く救急車、救急車」

 私は朦朧(もうろう)とした意識の中で、無線機をつかみ「大事故発生――大事故発生」と息も絶え絶えに何度も叫んだ。

 その時、車の外で、「車の中で人が死んでるかもわかれへんのにポリ公何してんのんじゃ! 早よ助けたらんかぇ! そんな小僧追いかけんのん あと回しにせんかぇ!」と叫ぶ声が聞こえた。

 この小僧こそ、神様の手先であった―。


(C) The Yomiuri Shimbun Osaka Head Office, 2000.