役者の道 断念の段

 昭和48年元旦、母親の元(逃げた兄貴家族と同居)へ行った。寝たきりの母は私を見て、目にいっぱい涙をためて笑っていた。兄嫁は私の前に現れなかった。例年、正月は大勢のお客が次から次へと切れることのなかった家が静まり返っていた。昼頃、親会社の課長があたふたとやって来た。

30年前のわが鉄工所はそのままの姿でまだ在った(2001年3月5日現在)
 私が「お母さん 安心してええよ もう役者辞めや―― アハハハハ 遅いけど これから真人間になるわ」というと母は静かに目をつむった。すると課長が
「ほんまか ありがとう! おばあちゃんおおきに。実君 奥さんと相談したんか?」
「家族も含めて従業員50人の命を助ける思うて……なんて言われたら、相談もくそもありません」
「ほな 実君 ちょっと向こうへ行って話しょう」
具体的な打ち合わせに入った。

 正月2日に従業員を召集し、今後の体制と方針を課長同席の上報告し、4日の初出から仕事に入った。5日、プロダクションに役者廃業の電話を入れた。役者に未練がないといえば嘘(うそ)になるが、意外にさばさばとした気分であった。

 目の回るような忙しさで、1年はあっという間に過ぎた。工場経営は軌道に乗りつつあり、昭和48年は暮れようとしていた。

 12月29日、仕事納めの日の夕方、兄嫁の周囲が何かおかしい―― と思ったら、ドロンしていた兄がそっと帰っていたのだった。聞けば、名古屋でアパートを借りて生活していたが持ち逃げした金を使い果たして大阪へ舞い戻ってきた、そしてまたここで働きたいという。母は「みのる、許してやってくれ……」

 工場は些細(ささい)なことにこだわっている経済状態ではなかった。またたく間に3か月が過ぎた。さくらの花のほころびる頃、兄嫁の父親が300万円の金を持って乗り込んできた。「実君 この工場 株式会社にするからな あんたは非常勤の監査役や どんどん好きな芝居してええよ」 開いた口がふさがらなかった……。

現在のなんば高島屋前のタクシー乗り場風景
 「親会社へわしを連れて行ってくれるか、ちょっと挨拶(あいさつ)しとくわ」 親会社は私を窓口にしないと取引は出来ないと云(い)った。帰り道、社長(兄嫁の父)は「内政干渉や どっからでも仕事とってくるわい! 実君 ここの仕事は徐々に減らしていくからな。あんたの出勤は週1でええよ」 私の給料はスズメの涙になった。

 秋も深まりかけた頃、なにげなく新聞を見ていて「タクシー運転手募集」の広告が目に飛び込んできた。ダメモトでタクシー会社に行ってみたら、即、身体検査をされ、あれよあれよというまに近代化センターへ入所の手続きを終えた。家へ帰り、身の回りのものを持って1週間の合宿に入った。

 毎朝5時起き、体操、食事、ペーパーテスト(100点満点で100点を取らないと実地研修へ移れない)、車に乗る時はヘルメットをかぶり、間違ったハンドル操作をする度にこん棒が頭に飛んで来る。このこん棒の意味は、客にどんなに無理難題を言われても腹を立てないための訓練だそうだ。

 1週間の訓練の後、2回目の試験で2種免許を取得し、晴れてタクシードライバーになったのである。


(C) The Yomiuri Shimbun Osaka Head Office, 2000.