初オーディション

劇団四季最後の出演作
『海賊』マルセル・アシャール作、役名「ヴァンドブー」海賊の一員
 昭和31年から37年の12月まで、何とか辛抱していた劇団四季を辞めることになったのは、その年の12月1日に届いた故郷大阪からの一通の電報であった。
「チチ タオレル スグカエラレタシ ハハ」

 しかし私はすぐには帰らなかった。それから続けさまに電報為替、現金封筒と送られてきたが帰らなかった。室生犀星の詩が頭から離れなかった。「故郷は遠きにありて思うもの そして哀しくうたうもの よしやうらぶれて異土の……」だが、最後の電話で「12月末まででいいから帰ってきて……」と母に泣かれて東京を離れたのは12月13日であった。

 父は末期ガンであった。年が明けて2月5日に父は息を引き取った。父は30人ほどの従業員を抱える鉄工所を経営していたが、かなりの借金を残して逝(い)った。一応相続放棄をして、公租公課、道義的借金を返済すべく工場を再建するために、私は東京へ戻り退団届を提出し荷物を整理して大阪へ舞い戻った。

 昭和38年はとんでもない年であった。闇(やみ)金融のあやしげな人達との渡り合い、材料屋一軒々々に頭を下げて返済を待ってもらい、親会社との交渉、銀行との話し合い、従業員の退職、引き止め、役者の世界しか知らなかった私には貴重な日々であった。

 考えられないことであったが、一年で工場は軌道に乗った、と思ったら、私は不要の人間になっていた。私は渉外担当で生産に関係なかったからだ。
「たまに工場に顔出してよ、あとは好きな芝居でもしたら……」

東映テレビ時代劇『忍びの者』
役名「石田三成」

 昭和39年正月早々、以前劇団四季に在籍中に一度お世話になった大阪のディレクターに逢(あ)いに行った。小さいプロダクションに紹介してもらったが、たいして当てにしてなかった。4月になっていただろうか、マネージャーから電話があり、明日東映でオーディションがあるから午前11時までに行って欲しいとのことであった。

 気が進まなかったが出かけていった。現場には30歳前後の役者が大勢いた。6人ずつプロデューサー室に入って、順番に自己PRをした。みんな必死で己を語って最後に「よろしくお願いします」と頭を下げている卑屈な役者たちを見てだんだん自己嫌悪に陥ってきた。最後だった私は「徳田実です」と云(い)ったきり自己PRもせず一言も喋(しゃべ)らず部屋を出た。

 不愉快な思いは家へ帰ってもおさまることなく酒を飲んでひっくり返っていた。そこへマネージャーから電話があって「徳ちゃんに決まったよ!」 「なんで?」 「石田三成を悪(ワル)にしたいから不遜(ふそん)な男が欲しかったそうや。明日、カメラテストと本読みがあるから、事務所まで台本取りに来てくれるか?」

 昭和39年テレビ時代劇『忍びの者』(主演・品川隆二)1年連続もので後半3か月、12本出演したのである。それから36年間東映にお世話になるなんて、誰(だれ)が予想できただろう。しかし母は一度『忍びの者』の放送を見て「こんな悪い子を産んだおぼえはない」と云って死ぬまで二度と私の出演したテレビは見なかった。合掌


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