初舞台

私の23歳の時の顔です
 年の初めということで、初めて舞台に立った時のことを書いてみようと思う。しかし、思い出すだけで悔しくって悔しくって眠れなくなってしまった。21歳で劇団四季に入って初めて役が付くまでに3年の月日が経っていた。忘れもしない、ジャン・ジロドゥ作『アンフィトリオン38』である。

 役名は”馬丁”で、一言「旦那(だんな)様、馬の用意ができました」。

 3か月間の稽古(けいこ)の合い間に小道具作りと衣裳制作(自分の衣裳は自分でつくる。もちろん、デザインは衣裳デザイナーである)、それにチケット売りに駆けずり回った。ノルマは役の大小にかかわらず1人100枚。

 3か月の稽古の間、私に対する演出家のダメ出しは一言もなしである。舞台稽古の前日に劇場へ大道具の搬入、セッティング。我々若手はガチ袋(金づちや金具の入った袋)を腰に下げて、徹夜で仕込みをしなければならない。ほとんど寝ることもできずに、通し稽古寸前に衣裳に着替え、その上からガチ袋を下げたまま出番直前まで舞台の裏を走り回っていた。

ガチ袋

 いよいよ私の出番が来た。ガチ袋を外して、舞台へ出て「旦那様! 馬の用意ができました」と云(い)った途端、演出家が怒鳴った。

 「馬鹿もん、誰が出てこいと云った! ドアの外で云え! お前は客に見えなくていいんだ!」 ………涙も出なかった。

 私は稽古がハネた(終わった)後、みんなが消えるのを待って劇場を出た。私には帰る家がなかった。稽古場の衣裳棚がねぐらだった。ポケットに十円玉が2つ、有楽町(第一生命ホール)から恵比寿駅(稽古場)までの電車賃ギリギリである。その20円があったらコッペパンにコロッケを2つはさんで食えた。電車に乗るなんてとんでもないことであった。

 パンを齧(かじ)りながら私は歩き出した。日比谷公園から虎ノ門と、真夜中の暗い夜道を歩いて行くうちに、怒りは深く静かに沈んでいった。

 当時、劇団四季は年4回公演を行っていた。したがって公演が終わるとすぐ次の公演の稽古に入る。アルバイトは禁止されていた。裏方をしていても役者である限り、10日間劇場に通っても一銭の収入もない。劇団の代表(浅利慶太)は25歳、私は23歳、たかだか30人程度の学生劇団に毛の生えたようなものであった。それが今や劇団員を何百人も抱える”ライオンと猫の劇団”である。

わが劇団新人の5人です

 昨年末の公演『スリ―2000』でわが劇団でも5人の新人が初舞台を踏んだ。5人に出来る限り平等に芝居どころを作り、どの子の親が観に来ても恥をかかさないように芝居をつくった。私は100人以上観客の入る劇場で芝居はしたくない。役者1人1人の魅力が溢(あふ)れ出る、汗の匂(にお)いのする芝居を作りたいのである。


(C) The Yomiuri Shimbun Osaka Head Office, 2000.