久しぶりの書き下ろしの脚本「家族の肖像」の公演が無事終わった。リストラで部下の整理を任された男が、それなら自分からと、会社を辞め部下を引き連れて会社を起すという話だった。劇中、ちょっとイタズラ心で、若い男女の俳優に「漫才」をさせる場面を入れてみた。「かけあい」の面白さを、お客さんだけでなく、若い俳優達にも体験してもらいたかったからかもしれない。そんな、公演が終り、疲れきって、ケーブルテレビをつけて、トドのように寝そべっていた。
うとうとしている頭の中に賑やかな音楽が聞こえ…、いきなり出囃子(でばやし)とともに、中田ダイマル・ラケットさんの漫才が始まった。
思いはいっぺんに三十数年前に戻った。
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中田ダイマル・ラケットさん |
昭和42年か、43年(1967−68年)だから、私が三十二、三歳の頃だ。
午前中に東映でテレビの仕事が終わって当時所属していた松竹芸能の事務所に電話を入れた。すると、映画課の課長が
「ええとこへ電話してくれた。今すぐ事務所へ来てくれる?」
私「なんですか?」
課長「何でもええから・・・待ってるで」
事務所に着くと・・・
課長「色もんさんからの指名で、徳ちゃんが欲しいって云(い)うてきよってん」
私「どういうことですか?」
課長「さっきな、ダイマル師匠がここへ来はってな、誰が見ても女がイチコロで参る二枚目が欲しい、言いはってな、このアルバム見てて、この男でいこう!言うて、あんたのブロマイド一枚抜いていきよった」
私「冗談きついわ」
課長「冗談と違うテ、今度の日曜日、三重の松阪の公民館でダイ・ラケの芝居で・・・」私「題名は?」
課長「”なんたらなんたらお見合い合戦”?云うたかな・・・」
私「台本は?」
課長「そんなもんあるかいな、当日、上六の駅で渡すって。ゴチャゴチャ云わんと行って来い。一日行ったら一と月食えるで・・・」
この会話には少々、解説がいる。
「色もん」というのは、寄席の用語で、落語の合間に出る、漫才や手品、音曲ものなどを「色もの」と呼んだ。これを大阪弁でなまると「色もん」となる。当時の松竹芸能は、演芸専門劇場となっていた「角座」をホームグラウンドに、かしまし娘、ミヤコ蝶々・南都雄二、若井はんじ・けんじ、海原お浜・小浜、夢路いとし・喜味こいし…人気者を多数擁して、漫才王国を誇っていた。ダイ・ラケというのは、兄弟漫才で「10秒に1回笑わせる」と豪語した中田ダイマル・ラケットの二人のことだ。昭和16年にコンビ結成、戦中・戦後を通じて「掛け合い漫才」の面白さで人気を集めた。テレビ時代になって「びっくり捕物帳」「スチャラカ社員」などの主演コメディが大当たりし、当時は人気絶頂の脂の乗り切っていた二人だ。
そのダイ・ラケさんが「二枚目」を探していて、同じ松竹芸能の俳優から、なんと私を指名したというのだ。テレビの時代劇などにはよく顔を出していたが、悪役ばかりで、二枚目にはあんまり縁がなかった。「冗談きついわ」というのは、本当に本音であった。
当日上六に着くと、全員集合していた。お兄さんのダイマルさんが人懐っこい笑顔で
「来てくれたか、よっしゃよしゃ」。
マネージャーから台本を渡され電車に乗り込んだ。台本といっても、キャストと簡単なストーリーを書いたものであった。
弟のラケットさんが女装して女将(おかみ)役。そのラケットさんが経営する料亭で、街の有力者の娘と、仲人役のダイマルさんの連れてくる青年がお見合いをする。その青年が私だ。
現場に着くと、公民館の前には特大の絵看板が頭上に聳(そび)え立っていた。すぐ舞台稽古(ぶたいげいこ)が始まった。
ダイマルさんは私に、
「あんたはわたいの後ろに付いて出て来て、其処(そこ)に座りなはれ。ほんで、わたいが合図したら、適当に趣味の5つ6つ云いなはれ。その後、わたいとコレ(ラケット氏)が掛け合いで、思いっきりジジ、ババ(客)を笑わしてから・・・今度はあんたの不幸な生い立ちから、立派に成長した今日までの話をして・・・これはどれくらいかかるか分かれへんけど、客の顔色を見ながら・・・必ず泣かして見せるから・・・あんたは何もせんでええ、ただ神妙な顔して・・・ただし、あんたは絶対泣いたらアカンで、あんたが泣いたら客ヒクでェ・・・。」
…指示はそれだけである。舞台稽古はあっという間に終わった。
覚えるセリフもないので食事の後の待ち時間の長かった事といったらなかった。ダイマル・ラケットさんは、有力者役の天王寺寅之助さんと、茶碗にさいころを転がして遊び始めた。――退廃の極み!――若かったこともあって、反発する気持ちしか湧かなかった。
そして本番が始まった。
会場は400人ほど入るホールだったが、席は満員、開け放したドアから立ち見が出るほどの盛況だ。
ダイマルさんが私を褒(ほ)め称(たた)える。
「この男のお父さんは、海軍の軍人さんやったんや。予科練におったけど、戦死してなぁ。あとは、おかあはんが女手一つで、ここまで育て上げたんや。な、キリッっと賢そうな顔してまっしゃろぉ。大学出てまんねんでぇ。それも国立のええとこや、おかあはんに苦労さしたらアカン、ちゅうて、この子も苦学してなぁ・・・。」
いつ考えたのか、私の生い立ちをとうとうと語る。リアルな生い立ちにはこちらがふっと聞き入ってしまう。そっと客席を見ると、一人、二人とハンカチで目頭をぬぐう姿が見える。確かに、客席は泣いている。チラリとダイマルさんが目配せする。なんか喋れというきっかけだ。
「いや、私はそんな立派な男では・・・」
すると、「要らんこと云いな!」
とかわされた。元より、台本はないのである。
私の役に向けられた賛辞に、私ならどう答えるか、考えて発したセリフは、その一言と、満面の笑みに飲み込まれた。
客席は、その笑顔にふっと息をついた。
それからは、ダイマル・ラケットの真骨頂だ。
フリートーキングと云おうか、ひとり語りと云おうか、見事なものであった。
「あんた、どないしたん?云いたいことがあんにゃったら、イウテミテミテミィ」
テレビでおなじみのギャグが飛び出すと、待ってましたとばかりに客席は拍手喝采(かっさい)で盛り上がる。
この間も、私はずっと二枚目のまま正座していなくてはならなかった。芝居の世界に「つっ転ばしの二枚目」という言葉がある。男前だが、頼りない、若旦那のような役だ。その時の私こそ、そういう役だったのだ。
それにしても、一時間、ひとのセリフを聞いて座っているだけの芝居というのは後にも先にもこの時だけだった。映画やテレビなら、たとえ端役でも、アップになってその瞬間は「自分が主役」という実感が持てる。だから当時、私は映画・テレビの仕事が好きだった。ろくな台本もなく、稽古もしない、芝居は行き当たりばったり…。付きおうてられんわ。
そんな反発もあって翌日、早朝の仕事を理由に、一座とは別行動で、一足先に大阪へ帰った。
だがこの時のダイマル氏の芝居が10年後、ボディブローのように効いてきたのである。
約10年後、自分で芝居の台本を書くことになった「贋作タクシードライバー」は、自らの体験を、一人で語り始めるのが幕開きだ。
「何から話していいか分かりませんが…」
私の口から湧き出してきた語り口は、あのダイマルさんの一人語りであった。
不思議な縁だったなぁ…。
そんな思い出をかみ締めるうち、いつの間にか、ダイラケさんの漫才は終っていた。