俳優・内田朝雄氏のこと

 先日、来年(2003年)の公演の日取りを決める為トリイ・ホール(大阪市中央区)へ行った。すると劇場側から「来年秋は、<小劇場運動の発生>をテーマでイベントを組みたいから、昭和50年代の作品を読まして欲しい」との話が出た。

 その時、なぜか突然、内田朝雄氏の顔が浮かんできた。

 昭和53年(1978年)4月、東京・芝・増上寺で贋作「タクシードライバー」の初日は大入り満員の大成功だった。しかし、私は初日の芝居で転倒し、第4と第5頚椎(けいつい)が陥没し、絶対安静で東京女子医大に運び込まれたという顛末は前に書いた。「私が芝居するなら命の保証はしない」と医師から引導を渡されながらも、「やります」と言い張って、ベッドに縛られたまま寝かされ、首にギブスをはめられ寝たまま楽屋に当てられた増上寺の宿坊に到着したのだ。制作者である劇団四季の浅利慶太氏から「チケットの回収してもいいぞ」と言って頂いたが、やはり「死んでもやります」と、頑張っていた。その時だ。

 張り詰めた雰囲気に遠慮しながら劇団員が、
 「内田さんという方から電話です」
 「内田さん?」
 ピンとこなかった。私には内田という友人はいなかった。
 …回された電話の受話器を取ると、
 「初めまして、内田です。昨日、芝居観ましたよ」
 と落ち着いた男性の声が聞こえてきた。
私は
「ありがとうございます」と言ったが、まだ分からない。私の言い方が変だったのか
「分かりますか? 俳優の内田朝雄です」

内田朝雄さん

 ――東映のやくざ映画などで、悪役の親分を演じている、あの内田さんか…?しかし、面識はなかったはず…。と、思いながら黙っていると、突然、受話器の向こうの声が大きくなった。

 「徳田さん 死んじゃダメですよ。あなた もう死んでもいいと思ってるでしょう」

 なんと返事をしていいものやら、とまどってしまった。思えば、この公演は1度やればもう思い残すことはない、芝居を止めようと思い『うたかた公演』と名付けたのであった。そして、先方は、こちらが大怪我をして「この公演だけは死んでもやります」などと頑張っていることをまったくご存じないのだ。

 内田さんが、なぜ、私の芝居を見に来たのだろうか。実体験を元にしたという芝居を引っさげて大阪からやってきた劇団があると聞いてのぞきに来られたのだろう。劇団四季のプロデュースだったこともあって新聞やテレビにも紹介されていたからかな…。そんな風に思いを巡らしていると、電話の声が続いた。

 「素晴らしい芝居だったよ。だけどね、死んじゃダメだよ。あなたの人生はこれからだよ。芝居を止めちゃダメだよ。僕も君の年に小さな劇団を引っさげて、東京公演して、40過ぎて勝負をかけたんだよ。わが劇団は空中分解したけどさ、頑張りなさい!これからは、東京公演の時はどんなことがあっても観に行くからね」

 3日間の公演は最後までやった。そして寝かされたまま大阪へ帰ったが、内田氏の電話のことが忘れられず、1年経って再び東京公演を決意したのである。

 それからというものは、明治座へ出演されていようが、歌舞伎座であろうが新橋演舞場であろうが、内田氏は出演先の劇場からお弟子さんに両手にいっぱいの楽屋見舞いの食料を持たせてこられて、本当に嬉しそうに芝居の感想を言って帰られて、また、大阪へ帰ってから長文のお手紙をいただいた。初期の頃、私が毎年新作を公演すると「徳田君、乱作はいけないよ。どんどん再演しなさい。あなたの作品は、充分再演に耐えられるものばかりだから、2・3年に1本の割合で書きなさい」と、お叱りの言葉もいただいたこともあった。

 反対に私は、内田氏の芝居も映画もほとんど見ていない。だから、映画評などに載る「黒幕役をやらせれば天下一品」「大物フィクサーを演じられるただ一人の俳優」などという評価も、ただ活字で知るだけなのだ。

 大阪の新歌舞伎座に出ておられたので楽屋見舞いに行ったが、この時も舞台は見なかった。
 「私、商業舞台は嫌いですねん。舞台の途中でイヤになって帰るより最初から見ない方が失礼にならんと思います」
 というと、内田氏は
 「いいよ、いいよ。分かるよ」
 と、ニコニコしていた。
 そんな私に「あんた、そんなことしてたら友達なくすでぇ」と忠告してくれた人も多かったが、内田氏はいやな顔をしなかった。

 一度聞いたことがある。
 「なんで、私の芝居をいつも見き来てくれはるんですか」
 すると、  「あんたの芝居はウソがないからね。僕なんか、ハッタリかまして生きているだけだから」
 少し寂しそうに笑った。
 「僕も本当は、商業舞台嫌いなんだよ」
 私は、どう言っていいかわからず、照れ笑いをするだけだった。

 その後も、年賀状のやりとりを続け、生涯の研究課題をまとめられた著書「私の宮沢賢治」も頂戴した。内田氏は宮沢賢治を話始めると、止まらなかったが、私は
 「賢治は、富裕な家に生まれながら、『貧しい人たちのために』というようなことをいってますが、そういうのには、どうしてもウソを感じてしまう」と言って反発していた。
 ある時、東京公演の案内状を出しても、何の返事も返ってこず、「身体でも壊されたか…」と危惧(きぐ)していたのだが、それから間もなく、新聞で突然の訃報(ふほう)に接した。

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平成8年(1996年)10月1日付読売新聞訃報

内田 朝雄氏(俳優)死去 渋いわき役

 東映やくざ映画の悪役などで活躍した俳優の内田朝雄(うちだ・あさお=本名)さんが、三十日午前零時四十分、胃がんのため東京都内の病院で亡くなった。七十六歳だった。<中略>
 朝鮮半島から復員後、サラリーマンを経て、三十九歳で俳優に。東映の「宮本武蔵・巌流島の決闘」や大映の「眠狂四郎」「若親分」シリーズで渋いわき役として注目された。その後も、「日本暴力団・組長」や「仁義なき戦い」などで、やくざの親分や政界の黒幕などを演じ、市川猿之助さんのスーパー歌舞伎などの舞台やドラマにも数多く出演した。
 この六月にNHKの「達人たちの玉手箱」に出たのが最後だった。

 俳優業のかたわら、「私の宮沢賢治」を一九八一年に出版するなど賢治の研究にも力を注ぎ、詩の朗読会を各地で開いた。「悪役の少年時代―ガキ大将が教えるワンパクの道」の著書もある。

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残念で残念で・・・・・たまらなかった。

 わが劇団は今年で創立20年を迎えた。内田氏の、あの口をとんがらかして、よく響くテナーで「徳田君、続けることですよ、続けること」の声が、わが劇団を生き続けさせているのである。


(C) The Yomiuri Shimbun Osaka Head Office, 2000.