どこかで誰かが・・・

 脊髄(せきずい)と首を傷めて、一か月たった。医者から「すぐ入院しますか」と云われたのを、「いや、稽古場で劇団員の若者たちが待っていますので、横になっていても演出はできますから…」なんて云いながら、稽古場へ帰ってきた。あれから一度も病院へは行かず、薬も飲まず、もっぱら自然治癒力に任せている。脊髄の痛みは薄れてきているが、首は相変わらず右にも左にも廻らない…が、時間が勝手に直してくれると、安心しているのはどうしてであろうか?

 今までイヤと言うほどいろんな災難にあった賜物なのだろうか?


神戸上空を真っ黒に覆う火災の煙(1995/01/17)
 1995年1月17日。阪神大震災の朝だ。私は、大阪市内にいて、「大きな地震やったな」と思いながら、いつもの調子で早朝ゴルフを楽しみに淀川の河川敷のコースに出かけていた。
 「徳田さん?こんな日にだれも来てませんよぉ!」
 テレビに神戸の街が写っていた。いたるところから煙が…。

 ――これは、空襲かぁ?……。

 1945年7月。私は、福井県の集団疎開先で、栄養失調で倒れ、大阪に戻っていた。そして、その日は、たまたま生駒にいた。
 ――空襲警報!米軍のB―29爆撃機が大阪上空に大挙飛来し、街を焼き尽くした。サーチライト、群れをなす機影、高射砲の炸裂(さくれつ)…なぜか美しかった。
 神戸の空を覆った震災の黒い煙に、あの大空襲の風景がダブった。

空襲で焼け野原となった大阪市中心部
こんなこともあった。近くの年下の子供と一緒にあぜ道を歩いていた。「警戒警報解除」…空襲の心配はなくなっていたはずだった。しかし、背後の上空から、
 ブルルルルルルルルルルゥ
 単発エンジンの音が近づいてる。
 「グラマンや!」
 一緒にいた子の白いシャツを脱がせて、道端に放り出した。私もシャツを脱ぎ捨て、その子を田んぼに突き飛ばし、私がその上からおおいかぶさってかばった…。
 バリバリバリバリバリバリ
 身の縮むような機銃掃射の音。グラマンが遠ざかるのを確かめて、一目散に駆けて帰った。あとから、親たちが現場に戻ると、脱ぎ捨てたシャツの真ん中に機銃の弾痕が大きく開いていた。

 阪神大震災の映像は、半世紀前のそんな至と隣り合った極限の記憶の封印をはずしてしまった。「いつか、地震をテーマに脚本(ほん)を書こう」。
そんな思いが形になったのが、大阪府高槻市の主婦たちが作る劇団「うらら」のために書いた「梅雨の晴れ間に」だ。
 買い物中の主婦4人が、地震で緊急停止してしまったエレベーターに閉じ込められる。その母親たち(主婦の二役)が心配して集まるものの、救出を待つ時間に、自らの戦争体験や、娘を育てる間の様々な苦労を語り合う場となる。役柄を通して親の世代の生死感を、追体験する約1時間のシナリオに書き上げた。400人のホールは満員だった。

 「うらら」の公演は今年で2回目だが、その前身の劇団から通算すると8年目になる。現在のメンバーは5人。共働きの先生だったが、「モノを作る喜びが実感できる仕事を」とパン職人の道を選んだ夫とともに学校を辞め、自分はおすし屋さんを手伝っているという人がいる。障害のある子供を介護する一方で、「何か自分を表現したい」と飛び込んできた人もいる。離婚して、中学生の子を育てている人もいる。「芝居は趣味。家庭の仕事はきっちりやろう」と毎週1回時間を決めて稽古に励んでいる。

 「うらら」の前身の劇団は「おもちゃ箱」といった。その20年前に初めて私が設立した劇団「男と女」に加わってすぐに結婚してしまった元女優が発起人だ。
 突然、電話をかけてきて
「センセ、主婦が集まって劇団作るんです。指導してもらえませんか」
ときた。
「ほかの人に頼んだら金がかかるからやろう?」
「いえ、そんな…でも、センセしか思い浮かばなくて」
「やっぱり、おんなじこっちゃないか…よっしゃ、よっしゃ」
「うれしい…」

 時空を超え、生死を超えた、そんな出会いが、私に生きる力を与えてくれる今、生きていられるのは。”誰かが私を待っている”からであろう。
 「どこかで誰かが待っている」。
 聞いたような言葉であるが、「絶対安静」とテレビの前に「寝たきり」を決め込んで、脚本の仕上げにいそしめるのも、「待っている誰か」との出会いを楽しみにしているからだろう。
――何故か嬉しい日々である。

=お知らせ=

劇団「うらら」は7月7日、高槻総合市民交流センターで第2回公演を行います。
作・演出 徳田興人 「天の川の向こう」
「ひきこもり」の子どもを持つ親をテーマに、劇団員の子供たちも出演予定です。

公演は午後1時、午後3時半の2回。
前売り900円 当日999円
連絡先 0726−89−0680(上垣さん)



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