人生にはオマケがつきもの

 一発当たり!と叫びたくなった。私を育てた劇団四季へ報告する義務を感じ、朝日の劇評を同封して手紙を書いた。思いもかけず浅利慶太氏から祝電が届いた。その上、東京で『劇団四季』の制作協力で「贋作タクシードライバー」の上演を考えてはどうかという話になった。

 年が明けてすぐ上京、話はとんとん拍子に進み、すぐ制作担当者と劇場探しにまわった。どの劇場も劇団四季の手配ですぐ借りれるようになっていたが、どれも”如何(いか)にも劇場”という面構えで私の気に入った空間がなかった。最後に増上寺の地下に、ソフトに客の心を包み込むような素晴らしいフリースぺ−スを見つけ即決した。

実際の車を半分に切った装置も置いた舞台のイメージ
 公演の日時も決まった。昭和53年4月27、28、29、30日。あらゆるパブリシティもチケットの予約販売もすべて『劇団四季』にお任せで、スタッフも装置・(故人)金森 薫、照明・沢田祐二、20代に同じカマのめしを食った懐かしい仲間と仕事が出来る――、なんて夢のようであった。フジテレビのワイドショー”3時のあなた”の取材が大阪へ来て、タクシードライバーとしての私の1日を撮っていった。

 新聞社回りをするから、私だけ少し早く上京するように云われ、行ってみると劇団四季の社長室に記者が既に待っていたり、日生劇場のレストランでインタビューされたり、東京の演劇担当の記者ほとんどの人に会った。

 そしてその翌日、いっせいに写真入りで報道されたとたん、昔お世話になった人から全然知らない人まで、ひっきりなしに電話がかかってきて舞台稽古も落ち着いて出来ないほどであった。さらにその舞台稽古のあいだに”3時のあなた”の生出演まであった。

東京公演のポスター
 初日の幕が開いた。客は大入り、芝居もうけた。そしてラストシーン‥‥殺し屋が現れ、私が演ずる運転手を撃つ。撃たれた私はうしろへデングリ返って死ぬのである。デングリ返った瞬間、どこかでカクンと音がしたような気がした‥‥。やがて緞帳が降り、スタッフ、キャスト全員が舞台に集まり初日の乾杯をするべく、ビールのグラスを持たされた時、私の手からグラスが滑り落ちたのである。

 気がつくと全身びっしょり脂汗をかき、血が引いてゆくのがわかった。私は救急車で慶応病院に運ばれ、精密検査をうけた。第4頚椎(けいつい)と第5頚椎が内側に陥没していることがわかり、絶対安静即入院ということになった。しかし、慶応病院には空きベッドがなく、東京女子医大へ移された。浅利慶太氏から電話が入った。

「徳田、明日からどうする?この芝居は代役ということは考えられんし、売れたチケット買戻しようか?」
「いや、どんなことがあってもやります。舞台の上で死ぬことになってもやります」
「わかった。後は俺に任せろ」と云って、浅利氏は電話を切った。

 完全看護、ベッドに縛りつけられたまま夜を過ごし、翌朝、首にギプスをはめ、寝たまま劇場に運ばれ、4日間。なんとか無事公演を終え、寝たまま車で大阪まで‘護送’されたのである。

 オマケというには余りにも思い掛けないオマケであった。


(C) The Yomiuri Shimbun Osaka Head Office, 2000.